
PRODUCTION NOTES 釣崎清隆
僕が初めてフロイラン・オロスコに会ったのは1995年9月のことである。コロンビアの死体写真家アルバロ・フェルナンデスにエンバーミングの撮影を勧められて彼を紹介されたのだった。そして僕は、エンバーミングよりもまず彼の燻し銀の容貌に強烈な印象を受け、ニヒルな暗さ、簡潔で自信に満ちた言動にも魅了された。動かない死体ならスチールで撮る。オロスコはムービーで撮る価値があるし、撮りたいと思った。
1996年、僕はかつて『ジャンク』、『デスファイル』といった残酷ドキュメンタリービデオをリリースしていたAVメーカー、V&Rプランニングから、『デスファイル』の新作の素材撮影をオファーされた。そこで真っ先に撮ったのがオロスコの仕事であった。僕がオロスコに支払ったギャラは500ドル。その時点では、オロスコにとって、そして僕にとっても、このとき一回きりの撮影のはずだった。結果的にいうと『デスファイル』の新作は実現しなかった。日本における残酷表現のパージは着実に進行していた。僕にとって、こんな世紀末になるとはまったく想定外だった。しかし僕はお構いなしでオロスコの取材を続行していた。そして、会うとほとんど無意識にVを回していた。
そんな僕に対してオロスコはなぜか追加料金を請求することがなかった。オロスコは殉教者のように無愛想で禁欲的だ。いったい彼は、はるばる日本から死体を撮りにやってきた僕のことをどう理解していたのだろうか?お互い会話もあまりなく、彼にとって別段邪魔になるわけでもないので、僕は放っておかれたのだ。僕もそういう立場が心地よかった。奇妙な関係だった。この関係がいつまで続くのかと何度か考えたことがあったが、まさか1998年2月、オロスコの死をもって突然打切られるとは、僕は考えたこともなかった。それほど彼の存在感は圧倒的だった。死因はヘルニアだった。つまりは死体5万体分の体重がオロスコを押し潰したのである。職業病だった。残酷な話だが、名誉の殉職である。
取材はほとんど無意識的で感覚的なものだったので、今から思うと後悔も多い。時にオロスコを追詰めるような取材も必要だったのではないか?僕はひたすら彼に寄り添っていただけだった。それが大事なことのように思えた。
一度オロスコに尋ねてみたことがある。
「たとえば、死姦ビデオを撮ることって可能なのかな?」
「男優のギャラ込みで150万ペソ(1,500ドル)だ」
ずいぶん具体的な数字だ。
「参考までに聞くけど、スナッフ・フィルムとかは?」
オロスコはにやりと笑った。
「ふふふ、金あるのか?高いよ」
僕はからかわれているのだろうか?しかしオロスコが死体の中にコカインを詰めてアメリカに密輸したことがあるという話は本当のようだ。実際に麻薬戦争全盛期、遺体の中からコカインが発見された事件は頻発した。密輸法の中でも、コカインを詰めた赤ん坊の遺体を母親役の女性に抱かせて運ぶ方法はよく使われた。カメラが回っていないときにオロスコはそんな告白もした。彼が都市伝説の世界の住人であろうとなかろうと、僕はそもそも物事の真実にはあまり興味がない。目指すのは硬派なドキュメンタリーではなく美しい叙事詩だ。
僕は膨大なビデオ素材をともかく一本の作品にまとめ、1999年に『死化粧師オロスコ』が完成、2000年夏に劇場公開した。
(釣崎清驕j